2019年度西条YEG会長だった人のブログ

西条YEG 第38代会長・第38回四国ブロック大会西条大会、実行委員長だった高瀬裕介です。時計・宝飾・メガネのタカセを営んでおります。気楽に書きたいと思います。

四国ブロック大会西条大会⑦

大会前日を迎えても、

まだまだ終わらない作業をみんなに任せて、

次年度開催地の須崎のみんなと軽く飲みに行った。

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疲労と不安と楽しみがごちゃ混ぜになって、

あの日、粉屋で飲んだがイマイチ覚えていない。

 

そして、ついに始まった西条大会。

朝、起きた時の感覚は覚えのある感じだった。

西条祭りでの団長初年度のそれと同じ。

大きな緊張と不安、

そして楽しみと、

もうやるしかないから楽しもうと腹をくくった。

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まずは、12月2日の諸会議が始まった。

私は式典会場で分科会の設営と、

前日リハに参加。

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ドリーマーで開催中の諸会議も気になったが、

津島部会長からは何の連絡もなかったので、

上手くいっていると思っていたし、

諸会議部会に任せておけば問題なく、

私の出る幕はないと思っていた。

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前日リハも曽我部会長を中心に式典部会がキビキビ動き、

段取り良く進む。

さすが西条YEGじゃ、本当にそう思った。

紺屋町BARなどの設営などでも毎回感じるが、

遊びを入れながらも真面目に動く、

西条YEGのこういった時の動きが好きだ。

どこよりも完璧なリハじゃないか?

勝手にそう思っていた。

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そして、

ドリーマーでの情報交換会も大成功に終わり、

西条に多くのお金が落ち、

四国内外から参加してくれたYEGメンバーのあの笑顔は、

最後の最後まで頑張ってくれた諸会議部会を中心とした、

西条YEGメンバーの頑張りだと思う。

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西条大会が成功した1つの要因は、

西条YEGメンバー自体が、

苦労がほとんどだったとは思うが、

そんな中,それぞれが楽しめたからではないかな?と思う。

 

12月2日、

怒涛の1日目があっという間に終わった。

 

 

四国ブロック大会西条大会⑥

延期が決まって、実はホッとした気持ちがあった。

広報関係や、返礼品、大懇親会など多くのことが、

遅れ気味だった。

これは部会長や各部会のせいではなく、

私のスケジュール管理や指示が悪かったせい。

延期をキッカケに、

再度スケジュールを練り直し、

各部会に担当事業を進めてもらった。

私自身も予算を再度練り直し、

何回も何回も収入と支出の計算をした。

ただ、おもてなしに力をいれるため、

どう計算してもちょい黒字かそこそこの赤字になっていた。

この予算に関しては、

めちゃくちゃ不安だった。

8月以降は昼夜を問わずに、連日の会。

各部会は単会の活動もしながらで、

本当に忙しかったと思う。

部会長の5人には、かなり仕事を丸投げして頼ってばかりで、

本当に負担を掛けた。

何かあるたびに招集して、会をしていないと不安でしょうがなかった。

 

そんな中、全国のブロック大会が始まっていく。

トップバッターは網走大会、

完全オンラインとなった大会をネットで視聴した。

他のオンライン開催となったブロック大会もそうだが、

挨拶するメンバーの熱い言葉がたまらない。

その度に、西条はやるんだ。

絶対にリアルで全部やるんだと、

エネルギーをもらった気がする。

西条大会のある12月は登山が危険ということで前倒しでの開催となった、

石鎚登山分科会が11月3日に

晴天の下、開催された。

多くの単会から登録して頂いたが、

この分科会は岡山YEGと中津YEGに勢いを付けてを貰った。

この分科会がキッカケで、

2単会とは繋がっていくことになるが、

それは大会後の話。

登山分科会の成功は、

西条YEGメンバーに、何より私に、

「よし!西条大会本番も絶対成功出来る」

そう、勇気をくれる分科会となった。

企画し、色々と段取りをし、

当日は重たい荷物を1人で運び、

大活躍の曽我部会長には感謝しかない。

また、

西条以外で現地開催出来たのが豊田大会。

規模はかなり縮小しての開催だったが、

やはりリアルは面白い、それをしっかりと確認出来た。

寺田ブロ代や山下実行委員長が、

「次は西条さんですね!必ず行きます、西条で会いましょう」

そう言ってくれる。

豊田大会は、我々の背中を強く押してくれた。

その帰路の途中、Yランドリーグで全国優勝し、

勢いを貰い、大会本番まで毎日休みなく会が続いた。

会の合間を縫って、

多くの作業もこなす。

前回の県大会西条大会での経験を活かし、

西条YEGらしく作れるものは自分たちで作ってみようと、

パーテーションなどはメンバーの工場をかりて、

自作したのも、いい思い出。

 

こういった作業などに時間を割いて出てくることで、

いつもとは違う話をする中で、

仕事の気づきもあったり、信頼関係も生まれてくる。

 

YEGは卒業がある。

限られた時間の中で、各事業などにどれだけ参加出来るかで、

卒業する問までに得られる物や仲間の数は全然違ってくる。

このコロナ禍だからこそ、そこを伝えていきたい。

 

振り返れば、

花山会長年度の松山大会の時に、

西条大会のために多くのメンバーで参加して、

四国ブロック大会の現場を見ようと花山会長がメンバーに伝えた。

そして、

加藤会長年度から計画してきた四国ブロック大会西条大会。

ここまで本当に長く苦しい道のりだったが、

振り返ると、あっという間な気もした。

いよいよ西条大会本番である。

 

 

 

四国ブロック大会西条大会⑤

結果的に延期することに決まるのだが、

その間に、

徳田大会会長と余吾事務局とはかなり協議した。

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あの言い出したら絶対にブレない稲見ブロ代が言ってきた延期案。

基本的に西条大会の中身は任せると、

とにかく西条にお金が落ちて、

西条にきてくれるYEGメンバーに楽しんで帰ってもらってくださいと。

それ以外は基本的に実行委員会にノータッチだった彼が強く言ってきた延期案。

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延期したから必ずリアルで出来るわけでもなく、

延期は絶対にないと思っていたメンバーのモチベーションの問題や、

年明けには西条YEGの40周年事業も控えている。

徳田大会会長と余吾事務局とのやりとり、

どういった話をしたかなど、もう覚えていない。

ただ、延期で動き出そうと決めた。

 

まず、部会長など三役に説明したが、

満場一致での賛成はない。

延期すべきではないと意見が出る、

当たり前である。

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ただ、実行委員長が決めた以上は一緒に進むという言葉を貰い、

臨時の実行委員会で説明。

言いたいこともあったと思うが、

みんな多くを語らず延期で進むことに。

これは本当に有難かった。

 

そこからは稲見ブロ代や徳田大会会長が日本YEGや、

四国の単会に連絡し根回しをして、

四国ブロックの臨時役員会で承認を得ることになる。

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ちなみに、この四国26単会への連絡事、

これは徳田大会会長が全て1人で行った。

愛媛県下は直接、各単会会長の事業所まで足を運んでくれていた。

分科会への動員や、大会への登録などのお願いや状況確認など。

本当に大変だったと思う。

徳田さんはあまり大変さを見せなかったが、

コロナ禍での単会運営含めて凄いストレスだったと思う。

こういったことも含め、

大会会長は徳田さんが適任だったと思う。

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徳田会長とは毎日電話やメッセンジャーでやり取りをしていたが、

本当に上手く私が動けるように支えてくれた。

イケイケでブレない稲見ブロ代と、

徳田会長と私との組み合わせも自分で言うのもなんだが、

良かったのだと思っている。

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そして、

西条祭り前に予定していた西条大会が、

まさかの年末になった。

 

四国ブロック大会西条大会④

年度が変わり、

本格的に始まるはずだったPRキャラバン。

その出鼻をコロナウィルスに挫かれる。

感染が拡大し、

警戒レベルが上がりキャラバンは全て延期。

実行委員会も再度ZOOMで開催と、

今年度もコロナウィルスに振り回されることになると再認識することになる。

PRキャラバンも現地に拘り、

各単会全て現地に行きたかったが、

それは叶わず、

ZOOMでのキャラバンが多くなる。

 

が、

そのZOOMキャラバンも楽しめるのがYEG。

それなりに交流も出来たし、

西条YEG内での交流にもなった。

いくつかは行けた現地でのPRキャラバン、

宿毛宇和島阿波池田・高知・須崎・八幡浜

ほとんどのキャラバンが非公式な感じでの訪問になったが、

それはそれは最高で、YEGらしい時間だった。

キャラバンから西条へ帰ると深夜2時なんてこともあり、

参加したメンバーには負担になったと思うが、

それ以上の経験が出来た。

これは間違いない。

この何回かの現地でのキャラバンは、

みんなの一体感、共通の思い出をつくのに本当に助けられた。

招いてくれた単会には感謝しかない。

式典のリハリハも無事に終えて、

いよいよ近づく西条大会。

ただ、世間の状況は良くなる感じもなく、

「西条大会はすべてリアルで開催」

この目標の達成が危うくなってきた雰囲気の中、稲見ブロ代から出てきたのが、

「延期案」

 

西条大会は延期は絶対にしないと、

日本YEGで稲見ブロ代が、

実行委員会で私が言い続けていた。

そんな中、

延期をする可能性が出てきた。

四国ブロック大会西条大会③

「西条大会はリアルで全部やる」

丸亀大会に参加して、

より強く思うことになった。

丸亀YEGさんが必死で繋いでくれたバトンを最高の形で次に繋ぐんだと。

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私自身も、馬場実行委員長から重たいバトンを受け継いだ。

ただ、馬場君のあの開催宣言、

この人の後の実行委員長は大変だ、

このコロナ禍で、やりきった丸亀YEGさんの後は大変だと。

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実行委員長は俺で本当に大丈夫か!?

と、凄いプレッシャーに押し潰されそうになっていたのは覚えている。

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そして再度動き出した西条YEG、

毎月開催した、部会長会に実行委員会、

「絶対に聞きたい人以外の講演会はやめよう」

「分科会は全て開催地テーマの原点を感じるものにする」

「WEB返礼品は西条らしいもので、何種類も選べると楽しいから準備する」

「おもてなしに多くの予算を」

全てが開催地テーマ、

「原点 ~楽しくなければYEGじゃない! 本気で交流 西条流~」

これに沿っているかどうか。

各部会の仕事も明確に見えてきて、

分科会も大まかに見えてきた。

あと、西条YEGが恵まれたのが、

西条市、親会が前向きに応援してくれたこと。

これは勇気づけられた。

 

そして次の山、

四国ブロック役員会などの諸会議。

丸亀年度の最後の役員会、

設えは西条YEGで西条市での開催、

失敗するわけにはいかない。

津島部会長率いる諸会議部会を中心に、

ハイブリッド対応の準備が進む。

諸会議部会の「誰が不在でも対応可能な状態にする」という言葉通り、

各自が誰かに任せるのではなく、

自分から動く。

本当に頼もしかった。

担当した諸会議部会を中心に、

西条大会にむけて、

各自に少しずつ火が入り始めた感覚を持った。

 

いつだったか、

馬場実行委員長に言われた言葉、

「高瀬さん、メンバーに多くを求めてはダメ。実行委員長や部会長のようなテンションにはならないよ。ただ、頑張っているうちに必ず助けてくれる。最後は火が入るから、そこに注力しないように。」

これを思い出す。

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そして、

いよいよ稲見、徳田年度が始まり、

西条YEG主管の年度が始まった。

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四国ブロック大会西条大会②

実行委員長として、

2019年の年末に実行委員会の立ち上げ準備委員会を開催し、

ざっくりと今後の進め方を決めた。

が、ある程度は例年通りな部分がある単会の会長職と違い、

どう進めていいやら全くわからない状態だった。

そして、

2020年2月に第1回実行委員会を開催。

西条での開催が約30年ぶりで、

全てが手探り、何から協議していいかも分からない状態。

大会規模は?予算は?目標登録数は?会場は?

私自身が西条大会の全体像を描けれてなく、

ゴールが見えていないので、実行委員会の進め方も悪く、

明らかに意見のまとまらない実行委員会。

 

そして、

「コロナウィルス」

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自身の会長職が終わり、白石会長年度に入り、

第2回、3回目はZOOMでの実行委員会を開催するが、

コロナ禍で単会運営自体がストップしている状況、

私含めて、遥か先に感じていた西条大会の協議に気持ちが入りきらず、

手ごたえの得られない時間。

このままでは絶対に上手く進められないと思い、

相談しようと部会長を集めた会で、

「実行委員長、方向性が見えん」

「実行委員長のやりたい大会がわからん」

「誰が仕切るん?」

「一度、ブロ代と大会会長と話し合って、誰が旗を振るか?きっちり決めてほしい」

正にその通りだった。

たぶん、私の「覚悟」みたいな物が足りなかったんだと思う。

稲見君、徳田さんと多くの言葉を交わし、

時には意見をぶつけあった。

そこで3人の役割も決まり、

ぼんやりと西条大会の目標が見えくることになった。

 

その過程で、

私に一任された大会スローガンも決まった。

「原点」~楽しくなければYEGじゃない!本気で交流、西条流~

このスローガンに何度も助けられるとは、

この時は思いもしなかった。

そして、

最初の山を丸亀大会でのPRに設定し、

進めていくことに。

広報の藤原部会長と相談しながら横断幕、のぼりなどが出来上がり、

丸亀大会で使うPRビデオ撮影をし、PRの練習をするうちに、

徐々にだが実感がわいてくる。

そして迎えた丸亀大会、

丸亀大会を経験することによって、

私含め、部会長以上のメンバーのスイッチが入った。



 

四国ブロック大会西条大会①

2018年度、

加藤会長のアイデアで経験豊富な玉井さんを室長にして、

ブロック代表選出などを協議する「特別室」が設置され、

ブロック代表や大会会長、実行委員長の選出について協議が始まった。

時間的・金銭的に非常に大きな負担と、

四国のトップとしての責任を背負って貰うブロック代表理事や、

大会の方向性を決める要職の人選。

そんなに簡単に決まるわけなく、加藤会長年度では何となくの方向性は決まってきたが、正式には決まらなかった。

私含めて、三役のメンバーにもちろん焦りはあったが、

本当の危機感は無かったのかもしれない。

私が会長職をしていた2019年度、

四国ブロック関係を藤田副会長と曽我委員長が率いる「わらしべ委員会」に任せた。

後から考えると、この2人の人選が良かったと思うが、

それはまだ先の話。

わらしべ委員会を中心に数多くの話し合いを公式・非公式に、

大勢で、また少人数で開催した。

本当に多くの時間を使って協議した、

協議というか言い合いにもなったし喧嘩にもなった。

人選について進め方など反省点も多いが、

あの当時は自分が思う正義を貫き通すしかなかった。

そして、

本当に本当に本当に苦しみぬいて、

多くのメンバーに迷惑を掛けながら生まれた、

「稲見四国ブロック代表予定者」

「徳田大会会長予定者」

「高瀬実行委員長」

まさか自分が実行委員長になるとは思ってなかったし、

正直大変になったと内心ビビりまくっていたが、

約2年かけてようやくスタートラインに立つ準備が出来た。